情熱ものづくりインタビュー
株式会社光栄プロテック
創業100年を目指して、技術を次世代に受け継ぐ
第6回目の情熱ものづくりインタビューは「関西ものづくり新撰2016」において新市場創出分野で選定されました株式会社光栄プロテックから、代表取締役の道下正治会長と同じく三田雅憲社長に登場していただきます。
「関西ものづくり新撰2016」では「建築意匠向けステンレス・スチール・アルミ製品の『(バイブレーション)円弧模様硫化いぶし表面処理塗装』技術」で選定されました。
これは、これまで真鍮などの銅合金製品でしか実現できなかった「硫化いぶし仕上げ」をスチールやSUS製品でも表現できるようにするものです。さらに円弧模様を施して深みのある色彩を実現しました。
お客様の要望に応えるために
代表取締役社長 三田 雅憲さん
――――スチールに硫化いぶし仕上げをするにいたったきっかけを教えてください
社長:
お客様からある日、真鍮円弧模様硫化いぶしの見本を見せられたのです。真鍮の予算がないので、鉄で再現できないものか、と。過去にそういう技術がありませんでしたので、かなり試行錯誤したのですが実現できたという次第です。
硫化いぶし仕上げというものは、銅合金でしか表現できない技術です。銅合金のひとつでもあります真鍮。真鍮は文鎮などで使われています。文鎮のあの味わい深い色味。茶色っぽい、それでいて重厚で、クラシカルな仕上げです。日本に元気があった頃はあちらこちらに銅合金が建築建材として使われてきました。しかしバブル崩壊以降、そんな豪華な金属は使えないという風潮になってきまして、銅合金より安価な鉄板やアルミといった金属に代用されるようになったんです。ただ、銅合金で表現できた味わい深く重厚でクラシカルな仕上げは依然として求めてこられた訳です。
具体的には、塗装において銅合金の表面を作ってそこにヘアラインや円弧模様を入れる研磨をします。そしていぶしの薬品を塗り研磨します。最終的には職人と言いますか、技術屋の手の感覚に委ねるところが大きいです。
高度経済成長期とともに歩んだ草創期
代表取締役会長 道下 正治さん
――――硫化いぶし仕上げは以前からされていたんですか?
会長:
そうです。特殊表面処理業者ですので、硫化いぶし仕上げもそうですし、緑青仕上げといった古くから伝わる技術などを中心にやってきております。
硫化いぶし仕上げも古くからあった酸化処理技術です。
道下会長はもともと能登のご出身。1953年、中学卒業後に集団就職で東京に上京されました。最初に勤められたのが当時、別注金物製作業大手であった田島順三製作所内にあった下請け業者の光陽ブロンジングでした。
光陽ブロンジングで塗装や電解メッキのの腕を磨いた道下会長は1962年、大阪に移って個人事業の光栄塗装を立ち上げます。まだ20代前半の頃でした。
「生涯現役」を掲げられている道下会長 今もこうして時々現場スタッフらとともに汗をかいていらっしゃいます
会長:
当時、新幹線が開通する頃(新幹線開通は1964年)だったんです。今は違いますが、関西地区で硫化いぶし仕上げ職人が必要で、光陽ブロンジングの元請けであります田島順三製作所から「大阪に行ってほしい」と言われたんですね。その頃の日本は建設ラッシュみたいな感じで、田島製作所も大阪の仕事がたくさんあったのです。そのひとつのラインを自分が引き受けたという形です。
最初は大阪の豊中に事務所を構えていました。数人の腕のいい職人と日雇い労働者たちをバンに乗せて、現場に直行していたものです。ロクに休みも取らないで、日が暮れても仕事をしていた記憶があります。
光栄プロテックの光栄は「光栄です」の光栄とも取れますが、本当は東京時代にお世話になった光陽ブロンジングから一文字いただいたという訳です。
中学卒業から20年以上、他の職人たちを率いて現場で活躍された道下会長。職人として油が乗ってきだした40歳少し手前。一つの出来事が道下会長に工場を持つ決断をさせます。
大阪第2工場
――――大阪に移られて14年後の1976年、枚方で工場を持ちます
会長:
ある日、いつものように現場で高いところに登ろうとしたのです。そしたら足がブルブル震えたんです。高い場所に上がるのが怖くなったのですね。今後仕事を続けるにあたって、いつまでも現場で高いところに上がって作業はできない。現場仕上げから工場塗装生産へ舵を切る必要だったのです。私には恩師と呼べる人がいました。すでにお亡くなりになられましたが、その方が資金面の相談から窓口まで一手に引き受けてくれたのです。
――――1985年、株式会社へ改組。設備面では乾燥炉を配置されました
会長:
工場を建てて5年後。1981年に大阪府知事許可をいただけました。そこからですね。個人経営から会社として組織を意識しだしたのは。大阪府知事許可もいただけたので、取引先も大きなところが増えてきました。もう現場仕上げでは対応できない案件も多くなりました。
職人から技術集団としての会社組織へ
お客様に自分たちの技術を知ってもらうため、サンプルやパンフレットといった営業ツールに早くから力をいれてこられました
――――1993年には現社長の三田さんが入社されました
社長:
私は会長の娘婿になります。大学を卒業して生命保険会社で働いたのですが、縁あって26歳で光栄塗装に入社しました。
入社して、驚いたのは会社とは名ばかりで職人ばかり4名の零細家業。その職人の中にド素人が一人です。現場でも私だけがド素人なので当たり前だけど足手まといになるんですよ。早く一人前になろうと毎日が必死でした。
当時はバブルが崩壊したばかりの頃。金融機関は大変な騒ぎになっていました。私はそれまで保険会社に勤めていたので、この怖さが分かるんですよ。仕事がなくなるかもしれないって。だけど、古い職人たちはそうは思わないんですね。腕があれば仕事は向こうからやってくると思っています。
私は社内で職人に理解されないまま、営業部長の肩書を作ってもらい工場仕事と現場仕事、それが終わった空いた時間を営業活動にあててお客様のところを回り続けました。営業や接客の重要性を毎日説き続ける私に職人も嫌気をさしていましたし、増える仕事に対応していくためにも新卒採用が必要で学校回りも同時に始めました。
1997年には、いままでから脱皮する意味も込めて社名変更をいたしました。
東京ビッグサイトや他さまざまな展示会にも積極的に参加 展示会を通じて光栄プロテックのオンリーワンをアピール
――――社名変更から2年後、大手上場企業の認定工場となりました
社長:
バブル崩壊後、タイムラグはあるものの必ずこの業界にも不況がくると思っていました。だからこれまで会社がやってこなかったこと、営業力を強化するためにサンプルや営業ツールを予算をかけて作りました。それを持って数多くの企業に営業をかけていたんです。そしてこれも縁あって、ある方の紹介でとある上場企業の認定工場となるお話をいただいたのです。
第2工場設立から今に至るまで、おかげさまで上場企業数社とお取り引きできるくらいにまでなりました。当社程度の零細企業が上場企業複数社と直接取引させてもらえるところは少ないと思います。
2014年に会長が光陽ブロンジングでお世話になった地、東京の板橋に営業事務所を持ちました。2015年には千葉県白井市に関東地区を見据えた千葉白井工場を建設しました。今では大阪本社工場に15名、千葉白井工場に6名の従業員が在籍してくれています。
――――創業当時から比べると取引先の業界が広がってきましたね
社長:
そうですね。長年、建築金物を中心にお仕事をさせていただきましたが、現在では鉄道車両や鉄道設備、エレベーターや内装金物というジャンルまで手を広げさせていただいております。
東京へ出てみてわかったことですが、関東地区では3Kと呼ばれる当社のような塗装工場の後継者問題に直面しているところが多く供給力の低下が危ぶまれる気がします。
大阪では実績がある当社ですが、東京では無名の新参者です。その私たちが着実に関東での信用を伸ばしています。
また、我々は大阪の企業です。スピードと対応力には自信があります。関東のお客様に満足していただけると信じています。
創業100年を目指して
クリア加工 先人から受け継いだ熟練の技術で高品質な加工を実現
――――創業から約半世紀。会長が想像されていた未来と今はどうですか?
会長:
私は職人なんでね。当時、未来のことなんて考えませんでした。その日ある仕事に必死で喰らいついているだけでした。でもね。時代の流れで、変わるところは変わらないといけないと思うんです。
我々の時代はこの仕事に命をかけるくらいじゃないと、明日食べるご飯がなかったのです。先輩職人はね、自分の技術を教えてくれません。目で見て盗まないといけない。だから必死で仕事に喰らいつきました。
でも、今の時代はそうじゃありません。この時代、その日食べるご飯がないってことありませんでしょ?もう職人の時代ではないと思うのです。これからは職人というより技術者って表現が正しいのかも知れません。
私は、時代に合わせて企業も変化しないといけないと思っています。
ウレタン塗装 ここ近年は鉄道部品やエレベーター部品の案件が多くなってきました
――――自分たちの仕事に胸がはれるように
社長:
私たちはありがたいことにこれまで「大阪ものづくり優良企業賞2015」、「関西ものづくり新撰2016」をいただくことができました。これは自分たちの地位を上げるため、ブランディング(企業価値向上戦略)の一環です。
昔の職人が仕切っていた頃の時代とは違い、今は会社組織として技術者を育てて受け継いでいかないと、会社として生き延びることができません。自分たちの会社を好きになってもらうこと。この仕事に胸をはれること。自分たちの会社は大阪府や経産省から認定された会社なんだと誇りに思ってほしいのです。
大阪の元気!ものづくり企業「匠」を受賞した時の記念写真
会長:
今はね、技術者が日本から出すぎなんですよ。この国には資源がないのです。技術しかないんですよ。技術者が会社から出て行ってしまうと、その技術はそこで絶えてしまうわけじゃないですか。
社長:
最近の企業は技術者をもっと大切にしないといけないと思います。雇用条件もそうですが「この会社、好きやねん」って技術者が愛情を持てるように。会社が技術者を守り、技術者は会社に愛情を持つ。そんな相互の思いやりが大切なんじゃないでしょうか。
私は創業者の会長から事業を引き継ぎました。約半世紀、会長が育ててこられたこの会社を、私は次世代につなげるのが使命です。私たちは職人の手のひらの感覚で生き延びてきた会社です。この技術を一代で終わらすことなく、次世代へ受け継いでいく。人を育成する、技術者を守る企業でありたいと考えます。