情熱ものづくりインタビュー
樋口メリヤス工業株式会社
お客様に寄り添い、『本物の靴下』を追求し続ける靴下メーカー
第11回のインタビューでは、かかとのない靴下『つつした』を考案された『樋口メリヤス工業株式会社』の代表取締役・中江優子さんにご登場いただきます。
かかとのない靴下『つつした』は、どんな足にもぴったりフィットし、程よい伸縮性で、つま先やかかとが破れにくく長持ちする、天然繊維の靴下です。
中江社長は、創業1933年の歴史ある樋口メリヤス工業の6代目、倒産の危機など幾つもの転機を経て、現在、創業100周年を目指されています。幾つもの転機・ものづくりへの想いや今後の展望などを伺いました。
工場閉鎖後、インキュベートルームから再起をかけて
――――倒産の危機を乗り越えられたきっかけは?
取引先の負債の煽りで工場を閉鎖することになったとき、たまたま枚方市広報を見たんです。普段はあまり見ないページをたまたま見たんです。すると、インキュベートルーム(枚方市立地域活性化支援センター内にある創業支援の貸事務所)の募集記事が載ってて、さっそく事業計画を書いてプレゼンしたら、選考に通り入室することができたんです。インキュベートルームは仕事に専念できる環境で、経営相談ができるアドバイザーさんも支えてくださり、再起に向けて頑張れるとても良い環境でした。
※インキュベートルームとは、枚方市が運営する枚方市立地域活性化支援センター内にある創業支援の貸事務所です。ビジネスプランのブラッシュアップのためのアドバイス、資金調達や販路開拓、経営者や専門家を招いての交流会など様々な支援を行い、事業化を個別にサポートを行われています。
――――インキュベートルームの頃は、靴下作りは外注しておられたのですね。
インキュベートルームへ入った当初は、作ることが嫌になっていました。一生懸命やっても何も残らない。であれば、外注さんに作ってもらい、営業に専念しようと考えました。
営業としてお客様に接していると量産のデメリットを感じるようになります。お客様それぞれのご要望に応えづらいと。そこで「少ロット」を思いつき、ホームページに「少ロット」って書いたんです。そしたら、もう電話が鳴りやまなくて...。「少ロットってどのくらいですか?」という質問が相次ぎ、仕事に手を付けることができなくなりました。そこで、本当に単純に「1足から」って書いたんです。当時はこの業界では「少ロット」の考え方がなかったんですね。注文は順調に入ってくるようになりました。
でも、外注さんに作ってもらっているので、本来1足からは受けてもらえない。なので、「サンプルを1足、作ってください」とお願いしていました。まだ他の量産のものもお願いしていたので、誤魔化しながら作ってもらっていたんです。そんなことが続いていくうちに、「あんた、いつになったら量産出来るねん!」って言われて、作ってもらえなくなります。
だけど、私はお客様にお応えしたい!
お客様に「出来ません」とは言いたくなかった。
そうこうしているうちに3年が経ち、インキュベートルームを出なければいけない時期になります。
崖っぷちの自社工房
――――負債を抱えたまま、自社工房を構えたとお聞きしました。
外注に頼っても、お客様にお応えできる商品は作れない。やっぱり自社で作るしかない!インキュベートルームを出た後は自社工房を構えたい!」という思いは強かったものの、まだ負債があり、どうにもできない状況でした。
そんなとき、また枚方市の広報に目が留まるんです。今度は、地場産業の補助金だったんですよ。それでまた事業計画を書いて、プレゼンしたら採択されたんです。それで、現在のこの工房ができたんです。ここは創業の地、補助金のおかげで戻ってくることができたんですよ。
工場を閉鎖するとき、祖父に助けられたという方が現れ出資してくださったんです。ご先祖様が応援してくださっている気がして、また出資してくださった方の気持ちを何かの形で残したいと思い、本来なら返済に回すお金で中古の機械を入れて置いてもらっていたんです。
それが、今ある古い方の機械です。しかし、その頃、主人と会社の存続について意見が合わず離婚することになります。この地に帰ってきたときには、作り手がいない、機械だけがある状態です。工房で、ボーっとしている私がいました...。
そしたら、ふと1人の方が頭に浮かんだんです。以前、勉強のために働かせていただいてた同業他社の技術者さん。あの方なら作ってくれるかもしれないと。何十年も経っていたんですが、奇跡的に探し出すことができました。お願いしてみると、事業計画に共感し、協力していただけることになりました。でも実は、「去年やったら断っていた」って言うんです。お願いしたときが定年退職の時期だったんです。凄いタイミングでの再会でした。この技術者さんのおかげで機械が動き始めます。
――――これで順調に進むと思われましたが...まだピンチがあったんですか?
崖っぷちからの脱出、と思いきや、技術者1人では負担が大きい製造工程です。何人か採用しましたがすぐに辞めていく状況でした。それなら私が技術を身に付けたら事業承継もできるしいいんじゃないかと思うようになります。不器用で機械なんて自分に出来るのか不安でしたが、背に腹は代えられない、必死で覚えたんですよ。
すると、作り方が理解できたことで、お客様に応えられる幅が広がり、事業もよい方向へとまわりはじめました。
崖っぷちに強いんですね~(笑)。
お客様の声に応え試行錯誤し、たどり着いた『つつした』
――――現在の主力商品『つつした』誕生についてお聞かせください。
そうこうしているうちに、また出会いがあります。
北大阪商工会議所で体験工房をしていたことがきかっけで、大阪府の職員さんと出会い大阪商品計画を紹介されます。新商品開発にチャレンジする事業者を専門のアドバイザーが一年がかりで後押しし、最終はビッグサイト展示会に出展するものです。また、これも事業計画を書いて、プレゼンしたら選考に通ったんです。一年間アイデア出しをたくさんしました。たくさんの方に支えていただきました。でもまだ、ここででは『つつした』は誕生していないんです。
ビッグサイトに出展する1週間前、知人から「昔、かかとのない靴下があって、...」という話を聞くんです。「かかとのない靴下?」初めは「そんなんずれるでしょ」って思ってたんですけど、その方が靴下選びにかなり拘りをお持ちの方だったので、もう今はどこにも売っていない大切に使っていらっしゃるものを持ってきてもらったんです。そしたら、目から鱗でした!上質な商品で、かかとがないのにフィット感がすばらしかった!
すぐに作ってビッグサイトに持っていきたいと思ったけど、どうしようか悩んだんです。かかとのない靴下を作るには、機械の調整をかなり変えないといけないし、技術者さんに怒られるかな?と思いながら伝えてみたら、「やります!」って言ってくれたんです。
作った数足をビッグサイトに出展しました。すると、百貨店のバイヤーさんが「これ何ですか!」ってなって、そのバイヤーさんと話していくうちに、だんだん、かかとを取る勇気が出てきたんです。
これが『つつした』のスタートです。
――――『つつした』はお客様の声で改良され、現在の履き心地になったのですね。
『つつした』を百貨店の売り場に並べたばかりの頃、お客様から「伸びるとこがすぐ穴開くやろ?」「こんなん靴の中でくるくる回るんちゃう?」など色々ご意見をいただきました。私は靴下のことを熟知しているので、違うということを示したかった。『本物の靴下というものを伝えたい!』って思ったんです。良い糸に拘り、伸びる部分の糸量を落とさず、糸量3倍・糸代3倍でゆっくり丁寧に編み『つつした』を仕上げていきました。見た目では分からなくても履き続ければ分かってもらえます。
お客様には鍛えられました。平日午後のテレビ番組で取り上げられ購入した年配の女性から「キツイわ!」って返品されたことがあります。その頃の『つつした』のターゲットは30~40代のスーツの男性をイメージしていたため、強い糸でフィット感を出していました。やわらかいフィット感を望むその女性には向いていない商品でした。
でも、気付かされて、そこから改良を始めます。3段階の厚さの糸を使ってフィット感の異なる商品を開発したんです。直接販売しているからお客様の声に触れることができ、また自社で作っているからすぐに改良できる、だから夜に作って翌日お客様へ持って行ったこともあります。
商品開発を支える力
――――諦めずに一生懸命やり切った先には道が開ける、ということを実体験してこられたのですね。伺っていると、元気と勇気が湧いてきます!
実は、継いだ当初は好きな仕事ではなかったんです。なんで私が...と思ってたので一生懸命やれてなかったと思います。
それが、倒産しかかったときに、スイッチが入ったんです。
やめたいと思うことは何度もあって、相談すると周りの人にもほぼ反対される状況でした。でも、大きな負債は得意先の負債でこうなったわけでしょう?私がここでやめてしまったら、誰かを自分と同じ目に遭わせてしまう。それだけはできなかったんですよね。「すみません」と言うのは、とことんやり切ってからだと思ったんです。
やめるのは、明日にでもできるけど、会社の歴史と天秤にかけたときに、どっちがってなったんですよ。そんな思いで創業の地で頑張っていたら、壁にぶち当たる度に何とか打開策が見つかる、周囲に協力してもらえる状況ができるんです。ご先祖様に見守られている気がしました。
で、色々やっていく中で、自分の中で出た答えは「世の中にないものを作り出して、社会へ貢献したい」ということでした。「ないものを作り出して、お客様へ応える」それが、自分に合った仕事だと気づいたんです。もともと人と同じことが嫌いなタイプなので、今は天職だと思っています。
だから、嫌だなと思った仕事の中にも、絶対に自分の位置というものを見つけられると思うんですよね。
――――機械と一体になり、心を込めて作る技術者さんたちにも感動です!
現在使っている機械のうち1台は旧式で、メーカーも撤退して維持に手間はかかります。図案はパソコンで作るのですが、1つ1つ手探りで糸の張力や編みの粗さを考えて調整していく、コンピューターとメカのあいのこなんですよ。最新の機械であれば部品を変えれば終わりなんですけど、その分、機械にも商品にも愛情を持って作れるんだと思います。
微妙な調整はこの機械でないと、というときもあります。
今、技術を担当しているのは28歳の若手。最近、技術者を希望して入社してくれました。工房を開くときに協力してくれた技術者さんから技術を引き継ぐことはもちろん、「心を入れてものづくりをしよう」という想いも引き継いでくれてます。機械を大切に丁寧に整備し、いつも万全の体制で無理難題にも応えてくれます。そうやって蓄えた靴下の作り方は、レシピ本のように必要な調整等が細かくノートにまとめられています。そこがお客様にも伝わっているのかなと思います。
他に、最近、最新のホールガーメント機(無縫製のニットを編める機械)を導入しました。こちらも駆使して、もっとお客様のご要望に応えていきたいと思っています。
今後の展望
――――枚方から世界へ
この枚方から日本のものづくりを世界へ発信していくことが私の目標なんです。今年はじめてその扉が開きました。というのも、ようやく銀行さんに力を貸していただけるようになり、ある程度投資ができる体制になったんです。
海外はB to Bの予定で、世界のどこかのバイヤーさんに届きますように!という想いで、英語サイトで情報を発信しています。
――――「後を継ぎたい」と言う息子たちへの期待
息子たちには、「好きなことをやりなさい。その代わり、好きなことやったら、精一杯やりなさい!」と言って育ててきたんです。事業がどうなるかも分からなかったので「継いでほしい」とも言っていなかったんですが、先日テレビ番組で息子が取材を受けたとき、「継ぎたい」と考えていることを知ったんです。
工場を潰して、当時家も潰しているので、子どもたちには申し訳ないと思って生きてきたんです。それが、「必死で仕事をしている姿がカッコいいと思っていた」と言ってくれて、救われました。結局は、目先に来たものをすべてやり切ったということ、良いのも悪いのも含めて何からも逃げなかったということだと思います。そんな私の背中を見ていてくれたんだと思います。
長男が今海外へ行っているので、次男と協力して世界へ発信してくれるといいな、と思っています。
――――コットンから商品まで一貫生産を、創業の地であり幾度ものピンチを救われた枚方市で
目指す経営は和菓子「たねや」さんの繊維バージョンなんです。
もっと良い商品をお客様に届けたい!ってなったとき、行きつくのは原料なんですよ。なので、コットン作りや染から商品作りまで全部一体でやりたいんです。
しかも、「たねや」さんは地元の近江八幡市を活性化させている、「たねや」さんを求めて海外から人が来るようになったんですよね。あの企業が存続することで、みんなが幸せになっているんですよ。
私はこの枚方の地でそれを目指しています。関わる方みんなが幸せにならないと仕事ではないと思うんです。
創業の地であり幾度ものピンチを救われた枚方市で、みんな幸せに笑顔で迎えられる100周年を目指して頑張りたいと思います!